2022年3月15日火曜日

今日のランチ(2022.3.15)

ドリア風ピラフ・グリーンサラダ・コンソメスープ・牛乳・ミニケーキ

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 彼はいつも、ランチホールで生徒が戻した牛乳瓶をケースに整える。

 今朝の礼拝のお話で、最後に「さようなら」と言った彼の「それ」を見るのは、今日で最後なのか、と思うと、やはり感傷的になる。

 いつもの風景がいつまでも続くものではない。諸行無常。もう自分は若くもないし、頭では理解しているのだけれど。

 

 高校の生徒は3年で入れ替わる。春の初めに去っていき、桜とともにやってくる。同じ春は一度もない。

 私の知っている生徒はいつも15歳から18歳までの彼らだ。

 人生という道を、ただひたすらに前を向いて進む15歳の、陶器のように白く手首の細い少年少女。その傍らを3年間一緒に歩く伴走者が教師の生き方だ。

 

 彼らはみな、未来を向いてただひたすらに歩いていく。

 伴走者である私は18歳と書かれた白線の向こうに一緒には行けない。

 白線を越えて前に進んでいく彼らの背中を見送って、

 私はまた15歳と書かれた白線に戻り、彼方から歩いてきた新たな彼らの傍らに立ち、3年間の伴走を始める。

 学校は針が飛ぶレコードのように何度でも「15歳から18歳」を繰り返すガラスドームのタイムマシンで、教師はその中の人だ、と感じる。

 

 少年少女だった彼らが成長し、社会人となり、家庭を持ち、親として踏ん張っていてもなお、私には16歳だった頃の表情しか思い浮かばない。彼らは私の中ではいつまでもあの頃の彼らだ。

 

 生徒はみな、3年間かけてガラスドームの中を通り過ぎていく。

教師である私たちは彼らの人生の「15歳から18歳」に囚われている。

私たちは「ここ」にいる。

地球の、日本の、新潟の「ここ」。

そして、彼らの人生の15歳から18歳の、「ここ」。

 

今日で1年間が終わり、明日は終業日。

3月に卒業を迎えた彼らも、そろそろ18歳の白線を越える頃。

新潟市内のどこかで桜が咲いたと昨日のニュースで報じていました。

今日の1年間お疲れ様のランチには、ご褒美にケーキ。

今日のランチが最後のご退職の先生方にも、お疲れ様の甘酸っぱいベリーのケーキ。

 

ご退職の皆様

ともにガラスドームの中で過ごした日々を、どうか忘れないで。

どうかお元気で。

 

ありがとうございました。

 

勧君金屈巵

満酌不須辞

花発多風雨

人生足別離

 

Merci pour tout.

Je vous souhaite santé, bonheur et succès dans votre vie.

(M.I)



2022年3月11日金曜日

今日のランチ(2022.3.11)

バターロール・ビーフシチュー・野菜サラダ・牛乳・ぶどうゼリー

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 2000年に敬和に入職し21年間勤めたが、本年度末をもって退職をすることとなった。21年間大過なく過ごせたのも、ランチを毎日頂いてきたからであると心から感謝している。思えば狭かった旧ランチホール。早くランチにありつこうと「ランチダッシュ」を土足でする(当時は靴を履き替えないといけなかった)猛者どもと、闘った日々が懐かしい。

 

 新しいランチホールでは、定員を大きく上回る合格者が毎年続き、とうとう全校生徒が700人越え。当初は空き時間にゆったりとジェントルマンズランチとしゃれこんでいたが、とっ散らかる牛乳瓶をけなげに整える労作キングの生徒(44回生)に教えられ「牛乳瓶おじさん」として弟子入り。以降、10年間牛乳瓶を並べ続けてきた。

 

 春夏秋冬、ランチホールから見える景色を眺め、目の前の生徒の様子を観察する。教室ではない場所で生徒が見せるふとした表情から、今何が起きて、何に悩んでいるのかを知ろうとしてきた。そして、管理栄養士の五十嵐さんをはじめ、給食員さんたちとの会話で、知らなかった生徒の一面に気付くこともできた。寮生の夕食に顔を出すように心がけたのもそのためである。

 

 今振り返ると、教育の喜びのそばにいつもランチあった。なんと豊かな学園生活を送ることができただろう。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく頂ける環境。「礼拝は君たちの心を育て、ランチは君たちの体を育てる。」と生徒には言い続けてきた。かく言う私が、ランチによって育てられたのだった。21年間、本当にごちそうさまでした。

(S・K)

 

 

※ランチレポート最終回がはからずも3月11日。11年の月日を思い、静かに祈りたいと思う。



2022年3月10日木曜日

今日のランチ(2022.3.10)

ごはん(ふりかけ)・えびかつ・キャベツサラダ・豚汁・牛乳・ブッセ

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チキンカレーとスパゲティミートパスタ。グリーンサラダとチーズサラダ。プリンとフルーツポンチ。コンソメスープとあと2日分の牛乳。二日間の長く短い休校期間に失ったランチメニューへ思いを馳せながら、友愛館に向かいました。

 

新型感染症の制限下で僕らは多くの機会を失いました。「コロナだから仕方ない」という合言葉は僕らを慰める言葉として機能しています。しかし、失ったものを失ったままにしていて、それでいいのでしょうか。

 

コロナ以外の事例で考えてみましょう。おめかしをして向かったデートで、計画していたカフェが「機器不具合のため臨時休業」となっていました。立案者である相手の方は複雑な心境で言葉を失っています。あなたが気の利いた対応をしなければならないとしたら、どんな言葉が出るでしょう?

 

「出発前に電話で確認しなかったの?」と言ってしまうよりは「機器不具合じゃ仕方ないね」と言う方が穏当な対応でしょう。ですが「仕方ないね」の続きが問題です。「あなたは悪くないよ。じゃあもう今日は帰ろうか」となるのでしょうか。そういう優しい慰めの言葉が傷ついた心をさらにえぐってしまうことを僕らは理解するべきです。

 

重要なことは(個人的な結論ですが)、失ったものを失ったままにせず「取り返そう」と努力することです。コロナでできなくなった授業を取り返さなくてもいいのであれば、それはそもそも不要な授業だったはず。

そんなことを考えて、今日のエビカツを僕は二倍噛んで食べます。豚汁はおかわりもしました。昨日、一昨日のメニューを思いながら、今日のメニューを見つめて。

 

ごちそうさまでした。

(A.H)



2022年3月7日月曜日

今日のランチ(2022.3.7)

菜めし・サケ塩焼・ひじき煮・味噌おでん・牛乳・ミニクレープ

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2022年3月4日金曜日

今日のランチ(2022.3.4)

キムタクごはん・中華スープ・牛乳・杏仁フルーツ

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 (承前)36回生を卒業させた後、担任15年連続を終え、一息つく暇もなく生活指導主任を仰せつかった。人使いの荒い学園だ。ただ、担任とは違う視点で生徒と接することができたことや、様々な研修にも出ることができて感謝している。その後、再び担任をしたのが44回生である。学年主任もついてきた。

 

 2011年に入学した彼らは、必然的に「東日本大震災」と向き合う学年となった。その多くがこの世に生を受けた1995年は阪神淡路大震災が起きた年だ。学年テーマが「Do for Others」に決まったのも、み言葉が担任団の願いとなって現れたのだと思う。宗教部が企画立案した被災地支援労作。生徒と一緒に東北を何度訪ねただろう。

 

 3年次の修養会。全員で被災地を訪ねることになったが、反対意見もあった。「平和学習ならともかく、何のために被災地へ赴くのか?」「自然災害は善悪では語れない。生徒に何を気づかせ、考えさせるのか?」喧々諤々の学年会は毎回夜遅くまで続いた。学年主任として前のめり過ぎたのかもしれない。

 

 前のめりなのはフェスティバルの準備の時もそうだった。コミュニケーション不足でギスギスした時「よしっ!今日の労作は全員ミーティングだ。フェス後のLHRを労作に振替だ。」そんな勝手が許されるはずはなく、フェス本部にばれた六甲連合は全活動一日停止のご指導を受けた。生徒にひたすら謝ったのは言うまでもない。

(S・K)



2022年3月3日木曜日

今日のランチ(2022.3.3)

ソフト中華麺(ちゃんぽんスープ)・棒ぎょうざ・豆もやしのサラダ・牛乳・バナナ

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 先日、ずっと行きたかった燕市のアンティークショップを訪れることが出来ました。第二次世界大戦以前、1930年代のイギリス家具を中心としたアンティークが美術室ほどの広さの一室に所狭しと並んでおり、自分以外の方が来店していなかったこともあってすっかり舞い上がってしまい、長居してしまいました。

 そもそもアンティークと言うのは定義の難しいもので、欧米のアンティークだと一般的に100年以上古いものは骨董品として博物館に行ってしまいますし、アンティークらしい古めかしさを意図的に再現した新品のものは「アンティーク風」なものとして区別されてしまいます。だから1930年頃の木製チェアや仕掛け食卓が、一部のマニアから熱烈な愛情を注がれているわけです(僕はどちらかと言うと純粋なアンティークマニアと言うより、映画に出てくるアイテムが好きなだけですので『タイタニック』で使われているスーツケースや『ホームアローン』で置いてある玩具箱に興奮していました)。

 しかし、1930年代の家具も当時は新品として作られたのであり、それは現在の家具も同様です。今あるものが過ぎ去って過去のものとなったとき、特有の大人びた輝きを放ち始めるのです。

 一昨日、52回生が敬和を巣立っていきました。彼らもいつかはアンティークな敬和生としてここに戻ってきてくれるのでしょう(47回卒の僕はやっとヴィンテージと言ったところでしょうか?まだかな。)

 「敬和生」も定義の難しいものです。ただ、礼拝を大事にすることやランチの幸福を堪能することは敬和生であることの必要条件でしょう。それこそが卒業生から現役生へ絶えることなく受け継がれてきたバトンなのです。そう思うと、今日の棒ぎょうざが段々バトンに見えてきました。

今日もごちそうさまでした。

(A.H)